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 痺れるほど澄んだ寒さの中、柔らかい音が聞こえた。
 透明な空気に木霊する繊細な音。
 それはピアノの音。
 きっと生涯忘れられなくなりそうな彼女の音。

 防音装置が施されている音楽室から聞こえる音は、本当にかすかなものだ。それでも俺がこの音を聞き間違えることはない。音を立てないように注意してそっとドアを開ければ、思った通りあの人が無心にピアノを弾いていた。
「今日で最後だね、先生」
 真白い鍵盤に指を走らせていた彼女は、肩を震わせて振り返った。授業の時と違って結ばれていない髪が、するりと肩を滑り落ち、夕陽のほのかな茜色をはじく。
 落ち着きなく彷徨う彼女の視線は、こちらに止まることなく、額を、肩を、指を、かすめて。
 床に、落ちた。
 くちびるが動き、幾度となく聞いた音楽的なアルトの声が俺の名前をためらいがちに口にする。
「……うん。二週間なんてほんとにあっという間だね」
 間に流れる微妙な空気を振り払うように、彼女は無意味な会話を続ける。
「君もこれから頑張ってね。これから受験とかで色々大変でしょ」
「……」
 何だよそれ。何でそういうこと言うんだよ。俺とあんた。それしかなかった訳じゃないのに。
 どうして今更先生ぶった会話をしようとする? 俺を年下扱いしようとする? 俺たちの間にあったことをすべて無かったことにしようとする?
 拳を鍵盤に叩き付けると嫌な不協和音が柔らかな空気を一気に裂く。激しい音に、彼女が小さく叫んで息を飲む。
「ほっとしてるだろ? これで会わずに済むから……俺にさ」
 何でもないことのように言うはずだったその台詞は、口に出した瞬間、自分でも嫌気がさすくらい嫉妬深くて子どもじみたものに変わっていた。
「いい迷惑だった? 生徒の俺なんかに好きになられて」
「ちが……迷惑なんかじゃ……」
 二週間。長い長い人生で、ほんのささやかな間でしかない。数年も経てばセピア色の懐かしい思い出になるのがせいぜいの短い時間。だけど俺にとっては生涯忘れられない二週間。彼女を知って、彼女を好きになって、彼女を手に入れた……そう思った二週間。けれど二週間の恋は二週間であっという間に幕を閉じた。
「最後だからさ、聞かせてよ。あんたにとって結局俺は何だったの?」
 冷たい彼氏の代わり? 年下だから扱いやすかった? ……別に好きなんかじゃなかった?
「俺を好きって言ったのも嘘だった?」
 それを聞いた途端、彼女がはっとなったように目を見開き、きつく唇を噛んだ。そして、否定するかのように首を振る。
「それは……」
「でも全部無かったことにして彼氏のとこに戻る気なんだろ。大人だね?」
「な、なんで……そういうこと言うの……」
 彼女の睫毛が、ぱちぱちと瞬きをして震え始める。俺は知ってる。本格的に泣き始める前触れだ。ああ駄目だ、これ以上言ったら泣くだろうから止めなければという思いと、泣かせてぐちゃぐちゃにしてしまいたいという相反した思いが交差する。
 このまま、泣いたら。泣き疲れて理性を無くしたら。あんたはもう一度俺を好きと言ってくれるだろうか。あの時のように。
 惑う目に映ったのは、彼女の左手の薬指に光る、それの存在。見知らぬ男の付けた、彼女を所有する証。途端、辛うじて残っていた理性も、何もかも。あっという間に音を立て、自身の醜い嫉妬に浸食されていく。
 細い手首を乱暴に掴んで。抱き寄せて。甘い香りのする髪に顔を埋めて。どうしてだよと吐き捨てる自分の声はどこまでも苦い。
「彼氏のこと、何で忘れられないの? 俺じゃ駄目?」
 淡い光を集めて、彼女の傍らでいつも存在を主張し続ける銀の輪。憎くて仕方がなかった。たとえ年が離れていようと、教師と生徒であろうと……そんなものは一切関係なかった。
 彼女が俺を好きだと言ってくれたなら。あいつよりも好きだと言ってくれたなら。たった一言でもいい、そう告げてくれたなら。そしたらきっと、何もかも奪ってやれたのに。
「……ごめんなさい……」
 謝罪の言葉が聞きたい訳じゃなかった。聞きたいのは本当の気持ちだけだった。けれど、胸の奥底で本当はちゃんと理解していた。聞かなくても、彼女の気持ちは分かりすぎるほどよく分かっていた。
 あんたが俺を選ぶことは、ない。あんたの心を占める男は、とうの昔に決まってるから。
 俺は自分に都合のいい夢を見てしまっただけ。飽きられたおもちゃは捨てられる。
「俺は、あんたなんか大嫌いだよ」
 心とは裏腹の言葉を決別の証にするために。迸る想いを断ち切るように。
 白い花みたいな指先に噛み付いた。瞬間、彼女がかすかな悲鳴のような声を漏らす。口の中に、固い金属と、柔らかい彼女の指が在る。舌先でゆっくりとなぞると、小さな生き物みたいに逃げ回る彼女の指は、歯の間でかちりと鳴る冷たい金属のそれよりも冷たかった。
 ピアノの黒い蓋にスッと映るその手が綺麗で、何度目を奪われたことだろう。白くて細い指なのに、信じられないくらいの力強さを秘めているその指。鍵盤の上で無心に踊って幾重もの音を紡ぎ出すその手。
 俺のものには結局最後までならなかった、綺麗な年上のひと。
 掴んでいた手首を解くと、それは力を失って、黒光りのするピアノの表面をずるずると滑り落ちていった。
 薬指に赤く滲んだ……俺の痕。
「一生、忘れんな」
 静かに泣き続ける彼女を置いて、音楽室を後にした。戸口のところで振り返って、別れの台詞の代わりに一言だけ。
「……お幸せに、先生」
 通り過ぎる薄闇が視界の端でぼやけてきたのは、気のせいだ。目の淵に貯まる熱い滴は、きっと目に塵が入ったせいだ。押し潰れそうに苦しい胸の痛みも、荒れ狂う嵐みたいな想いも、全部、ただの気のせいだ。

 ねえ先生。あんたやっぱり酷い女だ。泣くような女じゃなければよかったのに。人の気持ちをもてあそんでそれで平気な女だったら、蔑んで忘れてやれたのに。
 あんたが彼氏を好きだというのも本当で、俺を好きだと言ったのも本当。そしてあんたは俺の気持ちに答えたことを心の底から後悔してる。きっと一生後悔し続けるんだろう。
 わかってるよ、だから辛いんだよ。
 今でもあんたが好きで好きで仕方がないから。
 俺は泣かない。泣いたりなんか絶対にしない。俺が泣いたら、あんたがもっと泣くって、分かってるから。自分勝手で自己満足だけど、これが俺の精一杯の思いやり。

 ねえ先生。
 俺があんたに残したのは、小さな痕に過ぎないけどさ。あんたは俺の心のいちばん奥深いところを見事に引っ掻いてったよ。だからさ、せめてその薬指見るたびに思い出してよ。あんたに狂おしいほど恋い焦がれてた男が一人だけでもいたってこと。
 いつまでもいつまでも思い出して。それが俺のささやかな仕返しだから。

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