1000花束を、

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「好きです」
 その言葉とバラの花束が、わたしにとって感情が波立つことない静かな日々の終わりで、新たな始まり。
 運命の神様は、いつだって突然、いつだって気まぐれに訪れるものなのだ。



 紅茶の味はどうかな。薄すぎないかな、渋くないかな。でも、あんなにミルクを入れたら、ロイヤルミルクティーみたいであまり関係ないかも。あーあ、せっかくのいい葉っぱなのに。渋いの苦手なのかな。
 あ、それ、私も前に読んだ本。すごく面白かった。ラストが泣ける、恋愛小説だっっけ。この子の趣味って、わたしと似ているかもしれない。いつも読んでる本が、私と同じだから。
 でも今日は、ミルクを入れすぎた紅茶よりも懐かしい題名の本よりも。テーブルに置かれたバラの花束が目にとまる。
 誰のためのもの? お見舞いかな。それともやっぱり、彼女にプレゼントなのかな。あんな両手一杯のバラ、きっとものすごくお金がかかったに違いないのに。
 最近の高校生は、進んでるなぁ。
 と、心の中でつぶやいた次の瞬間。私はその子とばっちり目が合ってしまって、慌てて手元の皿洗いに熱中しているフリをした。いけない、いけない。暇な時にはすぐこうしてお客様を観察してしまうのは、私のよく注意される悪い癖だった。皿洗いで冷たくなった手の甲をぺちっと頬に押し当てた。

 私がこの喫茶店でアルバイトをし始めてから、もうかなりの時が過ぎようとしている。
 ここは、カフェと言わずにあくまでも喫茶店だと言い張る、頑固なマスターがやっている、吹けば飛ぶような小さなお店。裏通りの目立たない場所にあるせいか、店ではいつも閑古鳥が鳴いている。だから、人間観察にはもってこい。でも、水色と白を基調としたお店は、清潔で静か。そして落ちついた雰囲気に満ちているので、わたしは気に入っている。題名を知らないクラシックのメロディも耳に心地いい。
 喫茶店というのは、その人本来の個性が出るもの。お店に入ってくる時の挨拶の仕方、席の選び方、オーダーの仕方。喫茶店で美しいひとりの時を過ごせるようになって初めて、大人だと言えるのかもしれない。
 さてさて。今日もお店にお客は数えるほど。今店内にいるのは、窓際の隅の席に座っている高校生と、私のふたりだけだった。
 その子はよく見る顔だった。特に言葉を交わしたことはないけれど、このお店の常連客。夏の半袖のシャツの襟元に曲線を描いた特徴のあるエンブレムは、ここから十五分くらい歩いた所にある男子校の制服だ。たぶん、十七かそれぐらい。さらさらの髪に大きな目。繊細な横顔には、少しだけ傷つきやすそうな可愛い表情を浮かべている。美少年と言うには、いささか子供っぽい顔立ちだけれど、荒っぽい男の子の中にいたらちょっと人目を引く顔であるかもしれない。
 彼は必ず週に二、三回はやって来る。そして、やって来たら紅茶を一杯頼むのだ。紅茶に入れるのは、砂糖が一さじ、ミルクはあるだけいっぱいと決まっている。たいてい、本を読んでいる時が多い。学校の勉強をしていることもある。しょっちゅうやって来るので、 私もマスターもすっかり顔は覚えてしまった。そんな彼は、私とマスターの間では“紅茶王子”というコードネームで通っている。
 今日の紅茶王子は、お代わりもせず、窓の外の景色を眺めてぼうっとしている。かと思えば小さくため息。手元に広げた本にも身が入らないらしい。
 何を考えているんだろう。学校のこと? それとも、その赤いバラを渡す彼女のこと?
 ――今日は、お客様と店員の関係を超えて話しかけてみようか?
 私は漂白していた皿の仕上がり具合を、日に透かしてながめた。うん、いい感じ。やっぱり、お茶は綺麗なカップで飲みたいものね。
 その時、がたん、と大きな音がした。紅茶王子がいきなり椅子を蹴って立ち上がったのである。私は手にしていたカップを取り落としそうになってびくりとした。彼は何か意を決したように思い詰めた表情で、バラの花束を抱え、ずんずんと私の方に進んでくる。
 ものすごい勢い。お会計には早いのに。ど、どうしたんだろう。
 もしかして紅茶、苦かったかな? 塩と砂糖の入れ物が間違っていたとか? いや、まさか……ね。思い当たることのない私は、首を傾げて目の前に立ちつくす彼の言葉を待った。
「あのっ!」
 俯いていている彼の長いまつげが緊張のためか、かすかに揺れていた。彼は私の前できゅとそのくちびるを引き結ぶと、決心を固めたように手にした花束を私に差し出したのだ。
――あの、私が思わず見とれてしまった、見事に真っ赤なバラの花束を。
「……す、すきです」
 今、何て言ったんだろう。ほら、にこっと笑って接客しなきゃ、私。
「はい、かしこまりました……え……!?」
 彼が何と言ったのか、耳から脳に伝わるまでに数秒を要した。
 ――好きです。
 ようやく理解して私が大きく目を見開いた時、私の予想外の反応にぽかんとしている彼の姿があった。年下の男の子からの、突然の言葉。それは、私にとって、生まれて初めての“告白”だった。



「へーっ、『紅茶王子』が?」
 いつもなら、私はお店を閉めたらすぐに帰るのだが、今日は事情が違っていた。閉店後の静かなお店の中で、マスターの笑い声があははっと元気よく響きわたる。
「もー、笑わないでくださいよ、マスター!」
「だってさ……見たかったー、その現場」
 マスターは大口を開けて笑う。その目には、さっきから笑いすぎたせいか、うっすらと涙まで浮かんでいる。全席禁煙のお店が開いている時には絶対に吸えない煙草を美味しそうに吸っている。マスターは、ベリーショートの髪型がよく似合う年齢不詳の美女。海外で数年、紅茶に関して修行してきたということで(その経歴もどこまで本当なのかは謎なのだが)、私は紅茶に関する知識だけは尊敬している。ちなみにその他の部分は……性格というか、人格にだいぶ難のある人だ。
「今時いるのね、そんな純粋な子。見たかったな。バ、バラの花束かあ……」
 そう言って、またマスターはおかしそうにお腹を抱えた。美人というのは、いくらひどい笑い方をしても、顔が崩れないのが不思議だと私は思う。そしてもうひとつ不思議なことは。マスターは、紅茶をお茶を入れる時の手つきだけは、性格にまるで似合わず繊細で、思わず見入ってしまうくらい綺麗なのだ。紅茶の葉を蒸らす時間も、お湯の温度も、普段のがさつな性格とはまるで違う。
「……で、どうしたの?」
 マスターは紅茶を入れるとふう、とため息をつき、真剣な表情を作って(演技ではないだろうか……だって絶対面白がっているんだもの)、私の顔をのぞきこんだ。私も一応は真剣な顔になる。
「どうって……断りましたよ、もちろん」
「そうなの? もったいないなぁ」
「マスター、それ本気で言ってます?」
 私はちょっと眉根を寄せてマスターをにらんだ。マスターは、申し訳なさそうな顔になって、私に謝った。私はマスターの入れてくれた香りのいい紅茶を飲みながら、今日の午後に起こった出来事をぼんやりと思い出していた。



『あなたのこと、ずっと見てました……好きです』
 彼はそう名乗って私の目をじっと見つめた。痛いくらいにまっすぐな視線だった。
 女の子だったら、誰でもきっと一度は想像するかもしれないシチュエーション。バラの花束を抱えての告白。私がもう少し若かったら……うん、高校生くらいだったら喜んだかもしれない。
 今の私には、甘すぎる。そんなの夢だってわかってる。突然の告白に驚いている私を、どこか上の方で冷静に観察している私がいる。
 ――それに、もう恋をする勇気なんてないでしょう?
 そう耳元でささやく私がいる。
『あのね、急にそんなこと言われても困るわ。あなた私とろくに話したことだってないでしょ』
 それは、事実。
『話してますよ』
 彼は言った。少し憮然とした表情で。びくっとした。
『何回もこのお店で会ってますよ?』
『……そうかもしれないけど』
『確かにそんなに話したことはないけど、好きなんです。あなたが俺のことを何にも気にも止めてないのは知ってたけど……それでもあなたが好きなんです』
『……私は』
『今すぐ付き合ってくれなんて、言いませんから!』
 彼の目はどこまでも澄んでいて真剣で……。なのに、私はわななくくちびるを押さえるのに精一杯。
『大人をからかわないで』
 色々と言うべき言葉を考えたのに、出てきたのはそんな突き放すように冷たい言葉だった。その間、三秒。少年は何も言わなかった。深いため息をつく音だけが、沈黙に響いて、私は後ろを向いたまま固まっていた。
 店の戸口に取り付けられたカウベルが鳴る音が、やけに大きく聞こえる。
 私は、最後まで少年の傷ついた顔を見る勇気さえ、なかった。何だかとても……自分が酷く嫌な女に思えて仕方がなかった。



 彼がカウンターに残していった、綺麗なバラの花束。もちろん捨てることなんか出来なくて、カウンターに置きっぱなしだった。おかげでマスターに説明を求められ、私は一連の出来事の経緯を話すはめにおちいったのである。
「ごめん、ごめん。でも、紅茶王子でしょ? あの子、わりと可愛いじゃない。ちょっと付き合ってみればいいのに」
「私、そういうことに興味ありませんから。だいたい、彼はいくつだと思ってるんですか? 高校生ですよ! 未成年ですよ!? 犯罪です!」
 ぶすりとして、私は答えた。他人事だと思って、もう。
「何事も、やってみなけりゃわからないでしょ? 試しに付き合ってみればいいと思うのに」
「大人をからかってるんですよ」
「そうかなぁ。冗談でこんなに綺麗な花束は買わないと思うけど? 高かっただろーなぁ。高校生のおこづかいじゃ」
「…………」
 そうかもしれない。だって、高校生だもの。月々のおこづかいを割いてまで、こんなに綺麗な花束を買ってくれて。それに毎日、お茶を飲みに来てくれて……。
 でも、もう恋をするのは嫌だ。私が私でなくなる。あんなに苦しくて痛い思いをするおは、嫌だ。
 もう傷つきたくない。それと同時に、もう誰も傷つけたくない。
「ごめんなさい。常連のお客さん、一人逃がしちゃいましたね」
「そんなことはどうでもいいけど……私はあんたを心配してるの」
 思いも寄らない、マスターの優しい言葉だった。
「ねえ、まだ気にしてるの? ……“彼”のこと」
 マスターは真顔になって、私に訊いた。ちくり、と小さく胸が痛んだ。最近は全然思い出すことのなかった……ううん、思い出すまいと必死に努めていた過去の“恋人”。そして、過去の恋。もう終わってしまった恋。そうだというのに、今なお私を過去に縛りつけて離さない過去の恋。
「もういい加減、ふっきれば? 一年も経ったでしょ?」
 マスターはいつもそんなふうに言う。でも。過ぎた年月は関係ないのだ。私にとって、彼のことは、きっと一生忘れることはできない。私の心は、あの日で止まっている。あの日から、歩き始めることのできないまま、ずるずるとここまで来てしまった。こんなことじゃいけないとわかっている。私のことを心配してくれるたくさんの人に背を向けて、私は今の中途半端な状態を続けている。彼とのたくさんの思い出がある――このお店で。
 私は答える言葉を失って、黙ってマスターの入れてくれた紅茶を一口、飲んだ。そして、胸につかえていた何かを今はっきりと思い出した。
 誰かに似ていると思った、少年のまっすぐな視線。あれは、あの時の私によく似ていた。
 踏み出して傷つくことを恐れなかった、あの時の私。狂おしいくらいに“彼”のことが好きだった、あの時の私。決して戻ることの出来ない、あの時の私に。
 そう――私の昔の恋も、突然の告白から始まったから。



 ――カラン……。
 カウベルが、涼やかな音を朝の澄んだ空気に響かせる。
 朝十時。
 開店の十一時まで、あと一時間。お湯を沸かしながら簡単に店内の掃除をする。半年も続けていれば、目を瞑っていてもできてしまえる簡単なこと。
 開店前のわずかな時間。ポットと一人分のティーカップを自分のために用意して、椅子に座って一息ついた。紅茶には何も入れない。ストレートでその香り高い茶葉を楽しむ。
 そう言えば、“彼”は、ミルクと砂糖をたっぷり入れて飲むのが好きだった。
 湯気の立つ温かい紅茶を啜りながら、私は久しぶりにそんなことを思い出した。
 “彼”は私より五歳年上の恋人。はにかんだように笑う顔と、低めの優しい声と、大きな手が、誰よりも何よりも好きだった。何を引き替えにしても惜しくないほど好きだった。
 好き……だった。
 どうしてだろう? どうして、いつの間に彼を過去形で語るようになってしまったんだろう?
 私から告白して。彼に、いいよ、と言われた時は、本当に嬉しくって。付き合い初めて。幸せだった。人生でいちばん幸せな時だった。けれど、幸せな時はあっという間に終わってしまった。この喫茶店で彼に別れを告げられた日から、私はここから一歩も踏み出せずにいる。『さよなら』と、いつもと同じように笑って別れた彼は、きっと今頃どこかで笑っているのだろう。……私ではない、別の女の子の隣りで。
 彼はそんなふうに私を過去にしてしまっているのに、私はどうして踏み出せないのだろう。だって私には、彼の笑顔も、彼の声も、彼の手も、全部昨日のことのように現実なのに。
 彼と別れて一年。……彼を失って一年。
 一年。
 それをたった一年と呼ぶべきなのか、まだ一年と呼ぶべきなのか、私には分からない。
 ただ、その響きだけが今も胸に重くて。胸を締めつけて止まないの狂おしい痛みはもうないけれど、私の心はまだ虚ろだ。
 恋をすると、どうしてこうも心弱くなるのだろう。人と向き合うのを、恐れるようになるのだろう。



 またしてもカウベルが鳴る。はっとなって私が顔を上げると、扉の隙間からは薄茶色の髪がのぞいている。深い紅茶を思わせる澄んだ瞳がびくびくしながらこちらを見ている。その目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。怯えた子犬のようなその姿がかわいそうになって、つい声をかけてしまう。
「入る? 私の入れる紅茶でよかったら、おごってあげる」
 年上だからという余裕から出た言葉だった。彼があまりにも嬉しそうにぱっと顔をほころばせるので、私も不覚にも和んでしまった。
「昨日、マスターにからかわれて大変だったんだからね」
 私が頬をふくらませて言うと、彼はしおしおと頭を下げ、窓際の席に座った。顔を上げられないのか、彼の視線は下を向いたままだ。
「すみませんでした。俺……あなたの気持ち、考えずに。誰だって、いきなりあんなこと言われたら怒ってますよね?」
 ここで「怒っている」と答えられるのは、よっぽど心がない女だと思う。そんなに申し訳なさそうな顔を見せられたら、こっちが困ってしまう。そもそも、いくつも年下の男の子にこんなふうに怒るなんて、私は相当大人げないんじゃないだろうか。そんな考えが頭をよぎり、何も言えなくなってしまった。
 ……しまった。どうしよう。
「怒ってない。びっくりしただけだから」
 沈黙が流れ出して、私はため息をついた。ストライプのカーテンを開けると、さあっと、朝の気持ちのいい空気が部屋に流れこんでくる。私はそのまぶしさに目を細めた。窓際には昨日彼からもらったバラの花束が飾ってある。それを見て、少しだけ優しい気持ちになった。
「もういいわ、昨日のことは忘れてね?」
「忘れられません。だって、俺はあなたの返事をもらってない」
 思い詰めた声で彼は言葉を返してきた。
「返事なら言ったでしょ。大人をからかうものじゃないって」
「それは返事じゃないです。俺は本気です。昨日言ったことは、嘘じゃないから」
 がたん、と椅子を蹴って彼は立ち上がった。彼と私の距離が、縮まる。あっという間に私と彼の間をさえぎるものはなくなり、私は壁際に追いつめられた。
 痛いくらいにまっすぐな彼の瞳。傷つくことを恐れないその瞳。
 年下の子供だと思っていたのに、彼は全然子供ではなかった。力強い腕も、熱っぽい視線も、震えるような吐息も、全部予想外だった。あっさりと引き留められて、両腕で壁に閉じこめられ、私は逃げ場を失って焦っていた。
「……ちょっと!」
 彼の体を引き離そうともがく私の抵抗の声も、彼の耳に届いた気配はない。左耳に、そっと言葉がささやかれた。
「俺のこと嫌いですか?」
 間近で見る彼は、私よりも背が高くて、私はその瞳を見るのが怖くて目を伏せた。目を見たら、きっと何も言えなくなる。
「俺に可能性が一パーセントもないんだったら、そう言ってください。そしたらあなたのことは、きっぱりあきらめます。迷惑だったらここにも二度と顔を出しません。約束します」
 感情を抑えた低い声音が頭上から降ってくる。彼の顔が、すぐそばにある。これ以上近くにいたら、高鳴っている胸の鼓動が、きっと聞こえてしまう。
 冷静にならなくちゃ。私は、もう大人だ。年下の男の子から、今さら何を言われたって、驚く年じゃないはずだ。だいたい、ろくに話したことのない私のどこがいいの? 絶対、彼は何か勘違いしてるに決まってる。そう、これはきっと夢だ。夢を私は見てるんだ。
 でも、目を上げても、目の前の少年が消えることなんてなく。かえって、その澄んだ瞳に途惑いを覚えるだけで。
 彼の瞳の中に、私が映っているのが見える。ほんの少しだけ、私の答えに傷ついた顔。
 大人だと思っていた私の方が、よほど子供なのかもしれない。誰かに感情をぶつけられるのが、こんなにも怖いことだなんて。誰かと真剣に向き合うことが、こんなにも怖いことだなんて。
 ――私は、怖くて彼の目も見られない。
 数秒間の短い間に、頭の中でとりとめもない考えがいくつも交錯して、弱々しく否定の言葉を紡ぐのができる全てだった。
「私……君のこと、よく知らないもの……それに君は年下でしょ」
 どうしよう、私は目の前のこの子が真剣すぎて怖い。年下のはずなのに、どうして……?
「だったら、もっと知ってください。答えはそれからでもいいですから。お願いします、ちょっとでいいです。俺のこと、好きになってくれませんか?」
 ささやかれる言葉はどこまでも優しく、柔らかく。周りの音が、何も聞こえなくなっていく。胸につかえていた何かが、ゆるりと溶けていってしまう。
「でも……私」
「気まぐれでもいいから、俺と付き合ってください……駄目ですか?」

 どこか遠くでからん、という音がする。何の音だろう。涼やかな鈴の音?
 違う、これは店のドアが開く音だ! 一瞬にして、私は現実に立ち戻り、そこに立っている人影を捕らえていた。
「マスター!」
 めったに開店時間に来ない不精者のマスターがそこには立っていた。そして、私の目を見ると、眉を上げて一言。
「気にしないでいいわよ?」
 そんなことできるわけがない。私は思いっきり目の前の少年の胸を突き飛ばした。
「わ、わ、わ……」
 私は真っ赤になって、彼から離れた。私は大きく息を吸い込んだ。
「い、い、いったい、いつから見てたんですかっ!」
 情けないことに、動揺が思いっきり声に表れている。耳まできっと真っ赤になっているに違いない。
「えーっと、『昨日のことは忘れてね』からかな?」
 とぼけたようなマスターの台詞に腹が立って、私は思わず声を大きくして抗議した。
「それってほとんど最初からじゃないですか! 見てたんなら助けてください!!」
 マスターは笑って私と少年の顔を交互に見た。
「そう言われてもね。面白い見物だったしさ。美少年に迫られて、おろおろしてるあんたなんてめったに見られないし。悪い?」
「……思いっきり悪いですってば!!」
 どうしてこの人はいつもこんな風なのだろう。さっきまで緊迫した空気の中にいたのが嘘みたいに脱力した。
「そ、その、えーっと……す、すみません」
 私になのかマスターになのか、頭を下げておろおろと謝る少年を見て、マスターは肩をすくめた。
「謝ることはないわよ。私は君のこと気に入ってるから。少年、いいこと教えてあげよっか。チャンスはゼロじゃない。やれるだけやってみなさいよ。マスターの私が許可してあげる。ね?」
「ちょっと、勝手に決めないでください!」
 私のもっともな主張に、マスターは言うだけ言って、店を出て行ってしまった。何をしに来たんだろう、マスターは。まさか、本当に私の慌てふためく様を見に来たんじゃないだろうか。その可能性は否定できない。そういう人なのだ……。
 思わぬ人物の乱入のあと、私と彼はどっと疲れ切って椅子に座った。それから、私はよろよろと立ち上がり、いつものように紅茶を入れた。私はストレート。目の前の彼は、砂糖を一杯、そしてミルクをありったけ入れる。
 私は、その何度も見た光景に、笑ってしまう。紅茶の綺麗な色を見つめて、私はぽつりと小さく呟いた。
「ねえ、さっき言ったこと、本当なの?」
「ホントです。俺のこと、好きになってください……っていうの、変ですか?」
「ふつう、順番が逆だと思うんだけど……告白って、最後にくるものじゃないの?」
「そうかな……でも、こうでもしなきゃ、あなたは俺のことを知ってくれないと思ったから……」
 紅茶の向こうで、驚いたように彼の視線が揺れる。可愛いなあ、と素直に思った。まだ数えるほどしか言葉を交わしたことはないのに、もうずっと前から彼を知っていたような気がする。
 そう、やっぱりこの子は似ている。昔の恋に純粋だった私に、ほんの少しだけ。だから突き放せない。傷つけられない。だって、それは昔の私を傷つけることと一緒だから。
 ……“彼”もこんなふうに私を見ていたのかな。
 私はくすりと笑って、新しく紅茶をつぎ足した。茶色く透明なそれは、日の光を反射して、美しく輝いていた。
「また、お茶を飲みに来てくれる……?」
 それは、今の私に言える消極的な、でも最大限の“Yes”の言葉。今は、それしか言えないけれど……。
 ――いつか、私はまた、恋に落ちるかもしれない。ふと、小さな予感がした。

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