オレンジ色の夕陽が部屋を染め上げる中、
「……バカみたい」
誰に言うともなしに蜜はつぶやく。
バレンタインなんて嫌いだ。チョコレートなんてもっと大嫌いだ。
どちらも、ただお菓子会社の策略に乗せられてるだけなのに。「年に一度女の子が告白する勇気をもらえる日」だと訳知り顔に言う人もいるけれど、告白なんて別にバレンタインじゃなくたってできるのだから。
だが、上手く乗せられた者がまた勝ちなのかもしれない。きっと、みんなバレンタインにかこつけて誰かに何かをあげたいだけ……誰かに想いを伝えたいだけなのだから。
「きらい……
ついつぶやいてしまった次の瞬間、しまったと思った。負け惜しみめいた苦い言葉は、言霊となって心を揺るがし、目の奥をつんとさせる。途端、甘い味を一気に打ち消す塩辛い味が、口の中いっぱいに広がっていく。
惨めだ。渡せなかったチョコレートを自分で食べる羽目に陥るなんて、本当に、惨めだ。
窓の外を見つめ、まぶしい夕陽を遮るようにして目をつむる。
胸を占める想いは苦い。なのにチョコレートは甘い。すごくアンバランスだ。
そんな時だった。蜜の耳に、玄関のドアが開いて階段を上ってくる足音が聞こえた。足音は蜜の部屋の前で止まり、何故かためらうように立ち尽くしている。
「お母さん?」
少々不機嫌な声で蜜が問うと、無言の間があった後に低い返事が返ってくる。
「オレだけど」
秀だ。
蜜は、急いで表情を切り替える。鏡を覗き、目が赤くなっていないか確かめる。そして、リボンを解いて開けてしまったチョコレートの小箱を、ココアパウダーがこぼれ落ちるのも構わず、布団の中に押し込んだ。その一連の作業を不審がられないよう、十数秒で終えてから、「いいよ、入って」と蜜は答えた。
「……おー」
蜜の了承を得てから、ようやくドアが開く。蜜よりも頭ふたつ分高い身長に、クセのせいでちょっとだけ外にはねている髪。厳つい顔立ちを和らげるように位置する、大好きな下がり目。見慣れてしまった秀の姿だ。
「珍しいね、秀ちゃんが……うちに来るの」
不自然にならないように蜜は話題を出したけれど、無駄な努力だった。気まずい沈黙が二人の間を支配する。先に口火を切ったのは、秀の方だった。
「……蜜、お前さ」
秀の躊躇うような声音で、蜜は全てを悟った。やっぱりそうなのだ。最後の最後の望みさえ絶たれてしまった。泣きそうになるのを必死に耐えて、蜜は秀を見つめた。甘いチョコレートの味は、いつの間にか蜜から消え去っていた。
蜜と秀。関係は、ひとつ違いのハトコだった。普通ならばハトコなんてあまり付き合いはないらしいけれど、蜜の家では親同士が仲が良く家も近いので、小さい時からまるで兄妹のようにして育ってきていた。
けれどいつの頃からか蜜は秀が好きだった。
意識しだしたきっかけは、中学と高校に離れた頃からだったろうか。毎日のように行き来していたのが、時間帯が違ってしまってすれ違いが多くなった。蜜が知らない秀のことが、ひとつふたつと増えていくたび、秀への想いが募っていった。大人から見ればたいしたことのない“ひとつ”という年の差は、蜜にとっては大問題だった。淡い血の繋がりも、小さい頃からの時を過ごしてきたというかけがえのない関係さえも、今のこの一瞬を一緒に過ごしていなければ、簡単に吹き飛んでしまうと思った。
だから、決心をした。秀に想いを伝えるのだと。チョコレートに託して、自分の胸の内を打ち明けるのだと。だが、蜜の想いは伝える前に脆く砕け散っていた。
見たくなかった。好きな人が他の女の子にキスしているところなんて。
「び、びっくりしちゃった」
ひがみっぽくならないように、自分の気持ちを毛ほども悟らせないように、蜜は懸命に言葉を紡いだ。
そう……放課後、チョコレートを渡すため、帰る秀を待ち伏せていた蜜の目に入ってきたのは、知らない女の子と顔を寄せ合って楽しそうに話している秀の姿だった。それくらいなら胸がちりちりするくらいで何ということもなかった。けれど秀とその知らない女の子は、いつしか顔が触れ合うほど近くにいた。蜜と目が合った瞬間の、秀のしまったというような顔。
忘れられればいいのに、それは写真のように蜜の頭に焼き付いて離れない。
「秀ちゃんって、昔からもてるもんね……知ってたけど」
「蜜」
秀が何か言いかけようとするのを蜜は区切り、ただ無意味に問いを重ねた。
「い、いつから付き合ってるの?」
秀の口から彼女への想いなど絶対に聞かされたくなかったけれど、あえて蜜は口にした。自分の気持ちなんて、この泣き出す直前のような震え声でもう知られてしまっているだろうけれど、秀に決定的に悟らせたくはなかった。世界でたったひとつの特別な関係になれないのなら、せめて今までのようにハトコと幼なじみという関係にひびを入れたくなかった。
そう、思ったのに。
「やだよ……秀ちゃん」
蜜の目からは、もう笑って誤魔化すことなど出来ないくらい、後から後から涙が溢れ出した。苦い涙だった。駄々をこねる子供みたいだと思った。
「やだ、やだ、やだっ」
「蜜、あのな」
叫ぶようにただ言葉を繰り返す蜜を宥めようと、秀が手を伸ばした。
蜜の大好きな秀の手。その手に包まれているとどんな不安も消し去られるように思える秀の手。その手を蜜はきゅっと掴んで、力いっぱい引いた。
ふいに加わった蜜の思いがけない力に、秀が蜜の傍らに倒れ込む。二人の距離は、わずかだった。
「お前なんか誤解してるみたいだから言」
まだ何か言おうとする秀を、蜜は強引な手段で黙らせた。重ね合わせるようにくちびるを塞ぐ。秀のくちびるは、寒い中から帰ってきたばかりのせいか、とても冷たい。けれど、蜜のくちびるの温度に呼応するようにすぐに温くなって。触れ合ったところから、混ざり合って甘く溶け出す。
ほんの数秒だけ触れ合ったキス。秀と今の今まで触れ合っていたくちびるを、蜜はそとなめた。初めてのキスは、ほんのりチョコレートの味……チョコレートの、甘く切ない味だった。
「あたしは、秀ちゃんが好きなの」
想いを、ただそれだけの言葉で蜜は告げた。
甘いチョコレートもない。赤いリボンで気持ちを飾ることもしていない。蜜の胸を今占めている気持ち。すごくシンプル。ただひとつ。秀を手に入れたい、他の女の子に渡したくない、ただそれだけ。他の訳知り顔の女の子たちに言えば、こんな強い独占欲は恋じゃないと言うかもしれない。けれど、蜜にとっては恋だ。恋でしかない。
「蜜」
泣きじゃくる蜜の頭を秀の手がぽんぽんと優しく撫でた。それも子供の時から変わらなかった。
「お前、誤解してるみたいだから言いにきたんだけど……」
「……誤解?」
「だから……別に……キ、キスとかしてたんじゃないって」
恥ずかしいのか、秀は耳まで真っ赤にして蜜に言った。ごほん、とせき払いをひとつしてから秀はさらに説明を続けた。
「勘違いするなよ。あれは……その、な。ごみが目に入ったとかいうから、取ってやっただけだからな。変な勘違いするなよ?」
そういえばそんなふうに見えなくもなかったような。呆気にとられたように口を開けた蜜の額を、秀はコツンとこづいた。
「それにさ、オレが好きな女の子はさ、あの子じゃなくて、別にいるから」
「別にって……」
「そう。誰だと思う、蜜?」
悪戯っぽく秀の瞳が瞬き、蜜の顔を覗き込んだ。その曇りひとつない澄んだ瞳に、蜜は吸い込まれるようだった。秀の瞳に嘘はない。
まさか。本当に? そんな夢みたいなことがある?
「ねえ、蜜。さっきのもう一度言ってよ。そしたらオレも言うからさ」
「ええっ!? む、無理だよっ」
蜜は絶叫した。さっきは混乱していたから理性が働かなかったけれど、今考えると自分はかなり大胆なことをしてしまったのではないだろうか。勘違いで。泣きわめいて。……キスして。これでは本当に子供と一緒だ。あまりの恥ずかしさに顔も上げられない。
「だーめ。泣いててよく聞こえなかったもん」
「しゅ、秀ちゃん……」
涙目になって秀を見上げる蜜に、秀は赤くなったまま告げた。
「先に言われちゃったけどさ、オレもそのさ……」
言葉の続きは、蜜の耳のすぐそばでささやかれる。大好きな秀の声がゆっくりと蜜を満たしていく。そのまま誘われるように、秀のくちびるに蜜はそっとくちびるを落とした。
二度目のそれは、もう苦くはなかった。どこまでも甘い……恋の味だった。
やっぱり、バレンタインも悪くない。踊らされてみるのもいいかもしれない。
だって、こうして一歩踏み出すきっかけを蜜にくれたんだから。