砂音

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 ただ大きなものが見たかった。
 ちっぽけなわたしが抱えてる、ちっぽけな想いを吹き飛ばしてくれそうな大きなものを。



 体の後ろに柔らかい砂の感触がある。コートが汚れるのも構わずあお向けになると、厚い雲に覆われた空がのしかかってきそうなほど近くに見えた。そしてわたしの前方には、灰色の海が静かにたゆたっている。目の前の空と海との境界線は、どうしてかひどく曖昧だった。
「……はあ」
 吐き出しため息が、砂と潮の匂いが混じる磯の空気に溶けていく。
 わたしはポケットに無造作に突っ込んでいた葉書を引っ張り出した。そこに写る二人は、わたしが今まで見たことのないほど、幸せで満ち足りた表情をしている。破る決心も捨てる決心もつかず、葉書をしばらく弄んだあと、作り方がうろ覚えな紙飛行機を折った。そして、勢いをつけ、灰色に見える海の方へそれを飛ばす。
 全てを、ものすごく大きくなものに飲み込んで欲しかったから。
 けれど白い紙の鳥は全然飛ばず、風にも乗らず、数メートル先の砂に落ち、あっさりと砂にまみれる。
 ため息を奥歯で噛みつぶした。
「飛んでよ」
 誰に言うともなく、唄うように呟く。
「……飛んで、どっかに行っちゃってよ」
 ねえ。わたしの中のやな思い、全部吹き飛ばしてしまうくらい、遠くに飛んでって。
 なんでこんな思いを抱えていなくてはいけないの。なんでこんな思いをしなければならないの。
 いっそ全部捨てられたら。記憶喪失にでもなれたら。きっとずっと楽なのに。
 今のわたし、まるで出口のない迷路に押し込められたよう。前に進むことも、戻ることもできない。
 それこそ。立って周りを見渡すことさえ許されない。
 許されているのは、膝を抱えて、目を閉じて、耳を塞いで。
 ……泣くだけ。
 瞼の裏をじくじくと消えない痛みが刺す。それでほんの少しだけ楽になれる。
 痛みが、わたしを消してしまえばいいのに。
「……しずな」
 夕陽に長く伸びた影が、飛ばした紙飛行機を拾い上げるのが、薄水色に染まった視界の端に、ぼんやりと映った。誰かの声が、わたしの名を読んだ気がした。
詩砂しずな!」
 繰り返される呼びかけに、ようやく気づき見上げれば、そこには逆さまになった見慣れた彼の顔がある。

「……立芳はるか
「お前、いったいいつまでふてくされてんだよ?」
 立芳は、隣りに腰を下ろし、呆れたような調子で肩を竦め、わたしに問う。
「……いつまでかな」
 答えになっていない答えを返し、わたしは赤くなった目の淵を拭った。立芳は、なんだよそれ、と眉をひそめ、ぷいっとそっぽを向く。と同時に、立芳の流れる茶色の髪が、強い風に煽られ、乱されていった。幼なじみとして過ごしてきた長い年月の中、何度も見た風景だった。
「あのさ、もうすぐ二時間経つけど?」
 腕時計を見て、立芳が言う。
「そうだね」
 わたしは無気力に答える。
「……まだ気にしてんの?」
 立芳がわたしを静かに見た。視線が、音を立てるようにかちん、と複雑に絡み合う。
 立芳の瞳が、一瞬だけ細められ、すぐにまた大きくなる。わたしの想いの全てを見透かされているみたい。体が緊張で凍りついた。
 彼に、わたしの想いを知っている彼に、薄っぺらな誤魔化しは効きそうにない。
「やっぱり認められない……?」
 答えられなかった。答えたくなかった。
 わたしの目の端に映るもの。
 それは、砂にまみれた紙飛行機。
 飛んでいってくれなかった、わたしの想いを乗せた鳥。
「ま、あいつらももう結婚なんて、そーとー物好きだとは思うけどさ」
 立芳の言葉が胸を刺す。左の胸から柔らかく傷口を広げていく。
 唇を固く引き結んで答えないわたしに、立芳は口元だけで笑って、半ば埋まっていた紙飛行機を拾い上げる。そして、皺を丁寧に伸ばし、わたしの手に渡す。
「ダメだろ。あいつらの結婚の知らせ、こんなふうにしたらさ」
 手のひらにあるものは、しわくちゃになったただの紙一枚。たいした重さなどない筈なのに、それは鉄のように重い存在感を伝えてくる。
「いいかげん、忘れろよ。三年間、ちゃんと“親友”やってこれただろ。あと、ちょっとくらい……」
 自分を思って言ってくれているだろう、立芳のその言葉が、頭をぐるぐると乱す。
「親友……なんかじゃ……ない」
 泣きそうになるのを堪えて、わたしは続きの言葉を飲み込んだ。
 親友。果たして彼女を親友と呼べるのだろうか。そう思った。
 心の裏に焼き付いて離れてくれない、残像。
 結婚しますとただ一言だけ書かれた葉書に、幸せそうに笑っている自分の親友と“彼”の姿。親友の傍らで微笑む“彼”は、自分が決して好きになってはいけない人。大切な親友の、大切な人。
 わたしが抱いているのは……ずっとずっと抱き続けているのは。
 出口が見つからない片想い。想いが叶っても、叶わなくても、誰もが幸せになれない恋。
 捨てなければと思うのに。捨てなければと焦るのに。想いを押しとどめようとする理性に反比例するように『好き』は募って、自分ではどうしようもなくなって。
 決して打ち明けることの出来ない想いは逃げ場をなくし膨らんで、内側から冷たくわたしを食い荒らしていく。
 歪んでいく。
 この恋は、綺麗なわたしを一欠片だって残してくれない。どんどん嫌なわたしに染め変える。
 毎朝目覚めるたびに、わたしは自分が大嫌いになる。
「忘れちゃえれば、いいのにね」
 呟いて、わたしは苦笑した。そんなことは簡単にできないと、自身がいちばんよく理解している。
 彼を。親友を。
 ずっとずっと、大切に持ち続けた想いを。
 忘れられたら苦労しない。
 もう手の届かない場所へ行ってしまった彼。彼を銀の指輪二つで自分のものにしてしまったわたしの親友。最後まで自分の中で燻らせるしかできなかった、わたしの苦い片想い。
 砂の中に手をそっと滑らせた。湿り気を含んだ砂は、手の中で簡単に形を変え、指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていく。
 わたしの想いも、こんなふうに。
 いつかこんなふうに、こぼれ落ちて綺麗に無くなるのだろうか。
「ねえ……立芳は辛くないの?」
 わたしの問いかけに、立芳は首を傾げて、どうかなあと笑った。
 立芳は、わたしと同じように叶わない想いを抱えているはずなのに。それなのにわたしと違って強く強く、前だけを見つめて突き進んでいる。立芳は苦笑して、ま、辛くないっていったら嘘になるけど、と冗談めかせて言って続けた。
「……けどさ。俺は、あいつが笑ってくれてれば、それで幸せだから」
「いいなあ……そういうの。わたしは絶対、」
 無理かもしれない。
 言葉を、わたしは飲み込んだ。
 そう。わたしはきっと、自分を一生許せそうにない。
 この狂おしいまでの胸の痛み。それは、大切な親友のあの子を、心の中でずっとずっとずっと……裏切り続けた、罰。何よりも重い、一生分の罪。
「わ、バカ、なにまた泣いてんだよ。俺が泣かせたみたいだろ!」
「……ごめん」
「お前は……悪くないよ。全然、ちっとも悪くないよ」
「……ごめん」
 子供みたいに全身で泣き出したわたしをあやすように、立芳が頭をくしゃっと撫でる。ひどく優しさが感じられるその仕草に、胸がまた痛んだ。苦しかった。
「ほら、行くぞ詩砂! あいつらの結婚式、間に合わないだろ。せめて二次会だけでも出てやろうぜ。電車、一時間に一本しかないんだしさ」
「……ごめん……」
 泣いて謝って、繰り返す内に、何に対して泣いているのか、誰に対して謝っているのか分からなくなっていた。
 子供みたいに泣きじゃくっていることなのか。報われない想いを、いつまでも抱き続けている自分への不甲斐なさなのか。
 分からない。きっと、どれも答えで、どれも答えではない。
「とりあえずさ。詩砂のそばに、俺はずっとずっといるから」
 それだけ言って、右手を包んでくれるぬくもりが、優しくて愛しい。
 手を引かれて歩いていると、足裏で砂が鳴く。砂が唄う。
 それは、ともすれば打ち寄せる波の音に、吹きすさぶ風の音に溶け入りそうなほど、かすかな音。わたしは、砂だらけの紙飛行機を握りしめた。それは、立芳の言葉で重さを減らして、やっと本来の紙一枚の重さになっていく。
 わたしは、ゆっくりと顔を上げ、強く願った。
 ――神様。わたしは……幸せになりたいです。
 誰よりも幸せになりたいとは願わない。欲しいのは、手のひらに乗りきるくらいのささいな幸せ。欲しいのは……自分を想ってくれるただひとりの人。
「ねえ、立芳。わたし、幸せになりたい……」
 わたしが独り言みたいにぽつん、と漏らした言葉に、答えはすぐには返ってこなかった。けれど、打ち寄せる波の音に紛れて、確かな答えが返ってきた。
「……なれるよ」
 繋いだ手に、ほんの少しだけ力が加わった。わたしと立芳の、指の間のかすかな隙間が、抱きしめられるようにぴたりと重なる。
 立芳は続けて、ていうかよ、といつもみたいにちょっぴり怒った調子で言った。
「絶対なれるよ幸せに」
 わたしは、うん、ともそうだね、とも答えることができずにいた。塩辛い固まりが、胸の内からまた込み上げてくるのを、必死に飲み下し、答えの代わりに繋いだ手を握り返した。
 自分のことしか今まで祈れなかったわたしは、その時初めて他人の幸せを祈った。
 彼の幸せを。わたしの傍らにいつもいてくれる、優しい幼なじみの幸せを。
 わたしと同じ想いを抱えていながら、挫けずに前を見続ける強い彼を。
 ――幸せに、なりたい。
 さっきまで願いは、それだけだったけれど、それよりも先に。
 ――彼を幸せにしてください。
 心の中で強く願ったわたしの想いは、砂と空と海に淡く溶けていった。

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