生徒が先生っ!

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 彼の前ではわたしは何もかも忘れてしまう。
 わたしが彼より年上だということ。わたしが教師で、彼が生徒という立場にあるということ。
 全部、忘れて。彼に、溺れて。
 ただ『好き』という気持ちだけに、頭も、体も、心も、すべて支配されて何も考えられなくなる。

 外の夜桜を横目で眺めつつ、詩鶴しづるは資料室の片隅でプリントの作成に励んでいた。寝不足の頭に、パソコンの妙に明るいディスプレイはある意味殺人的だ。日々の緊張のために、肩こりも重なっているからなおさら。乾いた目に慣れないコンタクトが貼りついて痛い。もう何杯目になるか分からないブラックコーヒーを眉根を寄せて飲みながら、詩鶴はパソコンのキーを叩いていた。
「だいじょうぶ?」
 後ろでは心配しているような、面白がっているような、二つの相反する感情が混ざった声。えんえんと、パソコンと詩鶴が格闘するのをながめていた“彼”が、ついにしびれを切らしたらしい。
「…………もうちょっと」
 上の空で詩鶴は言葉を返し、壁に掛けられた数字の大きな時計を見やる。彼にしては、ずいぶん我慢した方だ。ちょっとかわいそうだったかな、と思って詩鶴は振り向こうとしたが、次に続いた彼の言葉に阻まれた。
「もうすぐ休み時間終わっちゃうじゃん。だからオレが教えてやるって言ったのに、ヘンな意地はるからさぁ」
 心底呆れたというその口調に、詩鶴はむっとして、パソコンの画面から目を離さず、口だけ動かして彼に答えた。
「甘えてちゃだめなの。これが先生の仕事なんだからっ! ほら、陸深くがみくんも早く教室に戻りなさい。次の授業始まっちゃうでしょ」
 先生らしく威厳を持ってそう言うと、陸深と呼ばれた彼は、面白くなさそうに口を尖らせる。
「冷たい。最近はいつも仕事、仕事って」
 すねて口をとがらせる彼に、詩鶴はついおかしくなった。こんなふうに子供っぽさを全面に出すのは、いつも大人ぶった彼にしてはめずらしい。年相応で妙にかわいく思えてしまう。ふっと吹き出してから、大人ぶって言ってみる。
「そうよ? 大人には、子供にはない仕事があるんだから。さ、邪魔しないで陸深くんは帰りなさい!」
「……“大人”ね?」
 急に、コーヒーカップの黒い水面が波打った。背中から日なたの匂いとともにふわりと包みこまれる。どうやら“子供”が彼の気にさわったらしいと気づいた時には遅かった。詩鶴はパソコンのディスプレイの前で石のように硬直した。
「あ、あの……あの……ね」
「いーよ、大人は仕事すれば? 子供は子供で勝手にやっとくから」
「や……あ、あの……でもっ」
 マウスの上の自分の手に重ねられた、彼の大きな手。詩鶴の意思とは無関係にそれは動かされ、苦心していた箇所をあっさりと戻していく。パソコンが大の苦手の詩鶴から見れば、まさに魔法のよう。手伝ってくれているのはよくわかる。
 ……けれど。心臓がおかしくなりそうだ。だって彼の髪が、頬が、くちびるが。今にも自分に触れそうなほど近くて。
 こんな密着した状態で、平静を保って仕事を続けられる訳がない。
「ほら、ここはこうしてこうするんだって。オーケイ?」
 ささやかれる言葉は甘さなどひとかけらもない内容なのに、合間の吐息だけで詩鶴の鼓動は加速度を増す。
「はい終わり。ちゃんとわかった?」
 返事をすれば、どうしたってうわずった声になってしまいそうで、詩鶴は小さくうなずいてみせるのがやっとだった。
 気を抜いた次の瞬間、無防備な耳を襲ったのは甘い感触。
「な、な、な、なにするの!」
 詩鶴はキスされた耳を押さえ、しどろもどろで上ずる声で叫んだ。
「別に?」
 彼はしゃあしゃあと言ってのけた。
「ちょっとしたスキンシップ……大人のね」
「ど、ど、どこがなのよ!」
「基本中の基本じゃん。子供だな、“詩鶴”」
 からかいを込めてそう呼ばれ、詩鶴は今の行為を忘れ、ぷんぷんといきり立った。
「もう、陸深くん! 先生って呼びなさいって言ったでしょ!!」
 詩鶴はふくれながら、詩鶴より頭ひとつ分は高い身長の彼を見上げた。彼は詩鶴と目が合うと、にやりと意地悪そうに黒く笑んだ。ようやく詩鶴の仕事が終わり、詩鶴の興味が仕事から自分に向いたので、至極満足そうだった。
「あれ、仕事はいいの?」
 とぼけて言うのが、何とも憎らしい。
「終わりました……おかげさまで」
 しぶしぶ詩鶴は口にする。不可抗力だが事実である。
「そう。じゃあ、やっとオレと遊んでくれる番?」
「遊びません!」
「久しぶりに…………しよっか?」
 途中、声をひそめて耳に届けられた言葉に、真っ赤になってしまうのが自分でも嫌になるくらいよくわかる。
「ば、ばか! しませんっ!! ここをどこだと思ってるの!」
「んー、学校?」
 単純すぎる反応は、彼を面白がらせるだけだとじゅうぶん承知しているけれど、そう簡単にこの頑固で真面目な(自分で自覚している)性格は、変えられない。
 詩鶴は涙目になって、涼しい顔をしている彼をにらんだ。最近はいつもこんなふう。
 ……前にも増して、彼に振り回されている。

 詩鶴にとって教師になるのが小さい頃からの夢だった。だから、大学は迷わず教育学部を選び、先生になる道をひたすら歩んできた。教職課程の単位を漏らさず取り、三週間の教育実習、難関の教員採用試験を経て、就職先の高校も見つけた。私立高校の、国語の教師。今はなり立てほやほやの一年目。念願の先生になれて、今の詩鶴は嬉しさいっぱい、やる気満々だった。生徒たちも可愛いし、授業の評判もそこそこいい。駆け出しの先生としては、前途洋々だと思う。
 ……ただひとつだけ、最大にして最悪なある問題をのぞけば。
「だいたいさ」
 と彼は言う。
「先生と生徒である間はキスもダメだなんていう、詩鶴の思考が短絡的じゃん?」
 そう、彼。彼は、詩鶴の……生徒にして恋人、なのだった。



 陸深由樹くがみよしき
 それが彼の名前だ。現在高校三年生の男の子。つまりは詩鶴の教え子である。
 成績は常に学年トップクラスの秀才。おまけに学校では生徒会長まで務めている。落ち着いて人当たりのいい性格で、教師からも生徒からも人望が厚い。こう数え上げていくと完璧で非の打ち所のない彼だが、それは彼の表の顔にすぎない。本当の彼は、ものすごく生意気で、ヤキモチやきで、手が早くて……そして子供だ。それを詩鶴は短い付き合いながらもよく承知している。
 二人の始まりは一年ほど前。まだ大学生だった詩鶴が、由樹の家庭教師をすることになったのがきっかけだった。
 一対一の初めての授業で開口一番彼が言った言葉は、今でも忘れられない。
『ねえ、先生。上手いキスってどんなの? 教えてよ』
 初対面から彼は真面目な詩鶴をからかうようなことばかり口にするわ、意地悪なことばかりするわで、全くもって手のかかる生徒だった。いつまでたってもそんなふうだから、てっきり自分のことが嫌いなのかと思っていたら、どうやらそれは彼一流の照れ隠しだったらしい。
『先生のことが好き』
 そう言われたのは、本当につい最近のこと。突然の彼のその言葉にはとても驚いたけれど、嫌ではなかった。むしろ嬉しかった。だって、いつの間にか詩鶴の方も彼を好きになっていたから。ただの生徒としてではなく……一人の男の子として。
 詩鶴と由樹。
 詩鶴と、年の割に大人びている由樹と。年の差は多少あるけれども、それなりに順調な関係を育んできたと思う。
 ……ところが。神様の悪戯か、はたまた悪魔の企みか。何故か、詩鶴は由樹の学校に国語の教師として就任するはめになってしまった。もちろん、由樹との関係は学校には内緒である。幸い、由樹は高校三年生、あと一年経てば二人は教師と生徒というくびきから解き放たれる。だから、由樹が学校にいる間は、先生と生徒でいようと、約束を交わしたのに……。

「詩鶴。いいかげん観念すれば?」
 頑なに下を向いたままの詩鶴に、由樹は耳のすぐそばで低く、甘くささやいた。
「ねえ、詩鶴――」
「……“先生”。先生ってちゃんと呼ばないと返事しない」
 彼は、詩鶴と先生と生徒の間柄だけではなくなってから、詩鶴を先生と一度も呼ばない。呼ぼうとしない。
「早くしないと休み時間終わっちゃうだろ。生徒に授業さぼらせていいわけ?」
「べ、別にこれしなきゃ授業いけないって訳じゃ……」
 本来ならば、年上の自分が色々とリードしてやらなければならない立場にあるのかもしれない。だが、そんな経験はほぼ皆無の詩鶴には、不可能に近かった。詩鶴よりもよほど経験豊富らしい由樹に、詩鶴は振り回されてばかりだ。
「詩鶴」
 ……だって。
 詩鶴は、こんなふうに急に名前を呼ばれるだけで、どきどきして何も考えられない。吐息が触れ合うほど近くにいると思うだけで、恥ずかしさと緊張で居たたまれなってくる。年上の余裕なんてまるでない。彼と目を合わせるのでさえ怖くてできない。
「……あのさ」
 石のように固まった詩鶴の頭上で、ぷっと彼が吹き出すのが聞こえた。
「なにも、そんなふうに取って食われそうな顔しなくてもよくない?」
 悔しい。年下だというのに、由樹がどこまでも余裕しゃくしゃくなのが気に障る。いつもこうなのだ。彼は、詩鶴の反応を面白がって、わざとからかうようなことばかり口にして……。
「ほーら、オレのこと好きだろ。好きって言ってみ?」
 無理やり上向かされ、むに、と頬を軽くつままれる。由樹はにっこり笑っていた。
「い、言わない! わたしと陸深くんは、先生と生徒でしょ!」
「関係ないじゃん、あと一年でオレ卒業だし」
「それとこれとは関係ないの。けじめの問題なのっ!」
 そう繰り返して首を振ると、由樹はぼそりと呟いた。
「まったく。ホントに頑固だな……まあ、そこが面白いんだけど?」
「面白いって何!? 先生に向かってその口の聞き方は……」
 そんな、甘い攻防を続けていた時だった。廊下を行き過ぎる教師の声が耳に入る。
「……あー、やれやれ」
 野太いその声に、詩鶴は真っ青になった。詩鶴の世話係でもある、学年主任の鬼瓦おにがわらだ。何故か詩鶴に敵意を燃やし、何かと詩鶴に突っかかってくる天敵である。人気のない資料室に男子生徒と二人きりでいるのがばれたら、妙な思い違いをされかねない。
 『破廉恥な! 不純異性交遊なんて、ワシの目の黒いうちは許しませんぞ!』とか何とか言われて、がみがみと叱られるに違いない(ましてや、由樹とは思い違いをされるだけのまっとうな理由もあるので、自分としても言い訳できない)。
 詩鶴は、慌てて手近なカーテンの影に由樹を押し込んだ。
「陸深くん、お願いだからちょっとだけ隠れてて」
「どうしてだよ」
 その教師と詩鶴の確執を知らない由樹は、顔を合わせることに何のためらいも抱いていないようなので、詩鶴は慌てた。
「見つかったら、また怒られちゃう。あの人、すっごくそういうことに厳しいの」
「……ふーん」
 目をぱちくりさせて由樹は、頷いた。が、次の瞬間。急に強い力で抱き寄せられた。



 ……何でこんなことになったんだろうか。詩鶴は泣きたい思いでうつむいていた。
 当たり前だが、元来カーテンというものは窓からの光を遮るために考案されたものである。厚ぼったいカーテンによって暗く閉じられた場所は、確かにスペースはじゅうぶんにあるものの、人が隠れるために作られた場所ではない。ましてや二人で隠れてしまえば、互いの熱と鼓動が伝わりそうなほど。その状態で、詩鶴はぴくりとも動けずに固まっていた。そんな彼女を面白がるような由樹の声が、耳元でする。
 ――詩鶴……へーき?
(……へ、へーきなわけない!)
 ――胸の音、すごいな。
(……へ、へ、へんなとこ触らないでってば!)
 ――あのさ、オレ、我慢できなくなってきたかも。……してもいい?
(……してもいいって、何を!?)
 冷や汗ものだった。こんなピンチを迎えるのは、生まれて初めてだ。外の鬼瓦に悟られるのが怖くて、投げかけられる言葉の数々に言い返せないのをいいことに、由樹は言いたい放題なのだ。
 詩鶴は、早くこの試練の時が終わるのを願った。



「鬼瓦先生ー!」
「おー、どうした?」
 のんきな鬼瓦の言葉とともに、足音がばたばたと遠ざかる気配が察せられた。その救いの音と同時に、詩鶴は息も絶え絶えの状態で這い出した。
(……永遠のように長い時間だった……)
 足音が遠ざかったのをしっかりと確認してから、声を抑えめにして言う。
「ば、ば、ば、ばか。へんなことはしないって約束したでしょ?」
「ああ、卒業までは先生と生徒、清い関係でいようってやつ? それは詩鶴が勝手にそう決めただけだろ。オレは納得してないからな」
 いいところでおあずけを食わされた由樹は、やや不満そうである。
「詩鶴だってイヤじゃないだろ、オレに触られるの?」
(また、すぐそういうことを……)
「と、とにかく、陸深くんの卒業までは、こういうことはだめ」
「どうしてだよ」
「だめったら、だめ」
 どこまでも頑なな詩鶴の言葉に、一瞬、沈黙が走った。顔を伏せたまま、由樹は小さく消え入りそうな声で言った。
「……詩鶴。そんなにオレのこと、嫌い?」
 淋しさと切なさの混じる言葉に、詩鶴は申し訳なさでいっぱいになった。由樹の肩が、泣く直前のように震えている。詩鶴は言い淀んで視線を落ち着きなく左右にさ迷わせた。
(どうしよう。な、泣いちゃった? 陸深くんが泣くなんて……)
「その……」
 詩鶴はくちびるを噛んで、つっかえつっかえながらも正直に言った。
「だってわたし、器用じゃないよ。陸深くんと先生の仕事と……両方いっぺんにやれる自信ないの。今はね、どっちも中途半端になっちゃいそうなの」
 そして、繰り返した。
「だからその……今はだめ。もうちょっとだけ、待って。お願い」
 詩鶴の言葉に、由樹はぴくりと肩を震わせた。
「オレ、詩鶴に触れないの死ぬほどつらいのに……」
「ご、ごめん。キスくらいならいいけど、それ以上は、その……」
「じゃあ、詩鶴は、オレのこと好き?」
「好き、好きよ。嫌いになんか、なれるはずないじゃない」
 真剣に言ったのに、由樹は……顔中でにっこりと笑っていた。
 どうやら泣きまねだったらしい。
「オレが泣いてるとでも思った? 泣くわけないじゃん」
(……また騙された)
 これでは真剣に話していた自分が大間抜けではないか。詩鶴は由樹の背中を思いっきりつねった。
「ばか!」
「わかった、わかった。オレが悪かったって」
 その軽い口調は、まるで反省してない。
「で、詩鶴はオレのこと好きなんだな」
「言ったけど……あの……」
「“キスくらい”なら、いいんだよな?」
「や……あの、今のは言葉のあやというか……」
「なに、仮にも国語の教師が前言撤回すんの?」
 国語の教師であることは関係ないような気がするが、もう遅い。
「“キスくらい”ならしてもいいよな。合意の上だよな」
「ま、待って。誰か入ってきたら大変でしょ……」
 精一杯のあらがいの言葉は、黒い瞳で遮られた。
「大丈夫。さっき、鍵かけたからさ」
(いつの間に!)
 五つも年上のはずなのに、いつも自分の方が弱い立場にいるのは何故だろう。まるで、ヘビの前のカエル、ネコの前のネズミのような心境だ。カーテンの影に追いつめられて、詩鶴は心底焦った。今度こそ逃げ場がない。
 由樹の腕が背中に回される久しぶりの感触。請うように熱っぽく告げられる。
「……キスしたいんだ、詩鶴に」
 その言葉の通り、強いキスが降ってきた。



 寄せては引く、引いては寄せる波のように、由樹のキスは、甘く丁寧できりがない。たとえば、キスの時に触れる互いの髪も。静かな部屋に響く濡れた音も。くちびるの熱さも柔らかさも。別の生き物のように滑らかに動く由樹も。
 全部が彼に、彼だけに繋がって、詩鶴はここが学校だということも、自分が先生という立場にあることさえも簡単に忘れてしまう。
 ……由樹だけしか、いなくなる。
 キスする前のどきどきも、キスした後の恥ずかしさも。キスしている時に我を忘れてしまうことも。すべてが甘い麻薬のよう。
 誰かが言ったのを聞いたことがある。キスは上手い下手じゃない。相性の問題なのだと。お互いがどれだけ相手のことを好きか。それで決まるのだと。だとしたら、由樹は詩鶴のキスをどう思ってくれているのだろうか。好きだと、詩鶴が思うくらいには、そう思ってくれているのだろうか。
「詩鶴、可愛い」
 交わすキスの合間に、由樹のささやきが耳をつたう。
「すごく好きだよ」
 魔法のように、その言葉は詩鶴の心をつかんで離さない。
「心の底から愛してる」
 蜜みたいに甘くとろける言葉の数々に、そっと身を委ねていると、時間を忘れてしまいそうになる。遠くから聞こえてきたチャイムの音に、詩鶴はようやくはっとして我に返った。
(しまった、危うく流されるところだった!)
 詩鶴は、ものすごい勢いで由樹を突き飛ばした。慌ててシャツの襟元を正し、乱れた髪を直す。そして、真っ赤になって逆襲した。
「この、エロ高校生! ばか、ばか、ばか!」
「悪口言う語彙が貧弱だな。それでもホントに国語の教師?」
 詩鶴から飛んできた資料集や文学全集を器用に避けながら、由樹は軽く舌を出した。
「あーあ、いいとこだったのに……もうちょっと詩鶴に触」
「そういうこと、いちいち口に出して言わない!」
 怒る詩鶴に、由樹は首を傾げた。さっきとはうって変わって真剣な顔つきだ。
「オレは言うよ、自分の気持ち。好きなら好き、嫌いなら嫌い、したいならしたいって。言わなきゃ気持ちは伝わらないだろ。言わないで気持ちが伝わるなんてこと、オレは信じないね」
 詩鶴の両の手首をぎゅっと押さえつけたままで、彼は言った。
「な、だから、もう一回キスしよ?」
「だ、だめだってば。わたしと陸深くんは」
 詩鶴と由樹は、先生と生徒という関係で。
「それはわかってるけどさ、その前にオレと詩鶴は恋人同士だったわけだろ」
 確かにそうだ。だが、けじめというものが……。
「関係ないって。ばれなきゃいいんだよ、ばれなきゃ」
 ぽんぽん、と軽く肩を叩かれると確かにそんな気になってくる……。
 年下の彼に振り回されるのは、口ほどには嫌じゃない。けれど、なんだかのせられているような気がしてならない。
「……だけ」
 ついに、詩鶴は蚊の泣くような声でつぶやいた。自分なりの精一杯の譲歩だった。
「……卒業までは、キスだけよ!」



 甘い傷痕の残る背をさすり、由樹は大きなあくびをかみ殺しながら五時間目の授業を受けていた。教科書とノートを形ばかり机の上に並べてはみたものの、内容など、左から右に簡単に擦り抜けていく。けれど別に構わなかった。教科書の内容はほぼ頭に入っている。
 授業の熱意が全く感じられない教師から意識を飛ばし、由樹は現実逃避を試みる。
 分かりきった内容の授業なんて退屈極まりない。そう、詩鶴のような一生懸命な授業でもなければ――かしこまって聞く気になど、とうていなれない。優等生の“陸深由樹”の看板を守るため、大人しく聞いている振りだけはしてやるけれど。
 窓の外……教室で授業を受けているのがもったいなく感じられるほどの、抜けるように青い空。そこに、つい先ほどまで一緒にいた彼女の姿を思い浮かべる。彼女が着ていた薄ピンクのブラウスや、胸元に付けていたネックレス。抱きしめた時に白いカーディガンが腕の中で艶めかしく滑る感触や、髪の間から立ちのぼるほのかなシャンプーの匂い。キスの後の震えるような息づかい、柔らかく濡れたくちびる。
 全てが、落としたため息に混じり合って繊細によみがえる。
 ――会いたい。
 “教師”としての詩鶴ではなく、“恋人”の詩鶴に。
 別れてまだ数分しか経っていないというのに、情けないくらい思ってしまう。本当に彼女に溺れているのかもしれない。
 ともすれば口元に笑いが込みあがってきそうになるのを由樹は必死に抑えた。授業中にうっかり思い出し笑いでもしようものなら変態と思われかねない。高校三年間にわたって築き上げてきた信用をここで失うのは少し嫌だ。
 でも……。
 先ほどの彼女は、それほどまでに可愛かった。
 “可愛い”。“守ってやりたい”。
 年上の彼女にこう思うことは変わっているのかもしれないが、詩鶴に抱く感情は、由樹にとってそういうものなのだった。
 精いっぱい、慣れない虚勢を張ろうとする詩鶴。ちょっとつつくと簡単に耳の先まで朱に染めて、うつむいてしまう詩鶴。可愛い詩鶴。キスする直前、緊張でまつげが震えることや、体がガチガチに硬くなること。それらの反応は、前に比べればずいぶん減ってきたとは思うものの、まだまだ彼女にとっては慣れないことらしい。
 本当に年上なのか。中学生だってもっとマシな反応をする女はいるぞ、と思うのだが、そんな彼女が好きなんだから仕方がない。
 年上の恋人。
 女子校育ちのせいもあって、普通の女以上におっとりしていてかつ、真面目。基本的には素直なくせに、妙なところで頑固なのでなかなか思考が読めず、恋人の由樹は苦労が絶えない。
 初めて会った時は、彼女のことなどまるで意識していなかった。……からかって楽しい対象ではあったのだけれど。なにしろ、詩鶴は薄ぼんやりとしていて、牛乳ビンの底みたいなメガネをかけた、いわゆる“花の女子大生”とは対極に位置するような女だったから。アルバイトと大学での勉学とにせっせと勤しみ、流行のお洒落も、コンパもサークルも、夜遊びさえもしない。なんでそうも真面目なんだと由樹が心底不思議に思って聞いたら、詩鶴は恥ずかしそうに、けれど誇らしげに微笑んでこう答えたのだ。
『先生になるのが夢なの。だから、わたしのできる限りでいっしょうけんめいがんばってるの』
 思えば、それが彼女を好きになったきっかけかもしれなかった。
 “夢”という言葉を、口にするのがまぶしいくらいに彼女は似合う。そんな彼女は、メガネを外すと、なかなか……いや、かなり可愛いのだ。鈍くてとろそうで、一見、およそ先生という厳しい職業には向いていなさそうだが、教え方はどこまでも辛抱強く、ねばり強い。そして優しい。
 由樹なりにアタックをして……やっと告白までこぎ着けて、正式なお付き合いが始まるまで、思いもかけないくらい時間がかかった。なにしろ、詩鶴はものすごいオクテだっただから。それは付き合うようになった今でも変わらないが。
(卒業まではキスだけねえ……あいつ、男というものを何も理解してないよな)
 彼女が由樹のいる高校へやってきて約二週間。粘りに粘って、やっとキスだけは公式に許可がおりたものの、納得がいかない。でもまあ、そんな堅物で真面目なところも、彼女らしいと言えば彼女らしい。由樹はかなり欲求不満であるが。
『だってわたし、器用じゃないよ。陸深くんと先生の仕事と……両方いっぺんにやれる自信ないの。今はね、どっちも中途半端になっちゃいそうなの』
 もうちょっと待って、とキスの後にか細い声で言った彼女は、すごく、ものすごく可愛いかったら、許してやるかとも思う。
 詩鶴が、もう少し教師という仕事に慣れて。恋人という立場にももう少し慣れて。それからでもまあ、遅くはないだろう。
(ぼやっとしたあいつに、少しくらい合わせてやるか)
 そんなふうに寛大な心になっていた由樹に、隣の生徒たちがささやき交わす話が耳に入った。
「好きな人? オレ、詩鶴先生! すっごい可愛いし!」
 ぴくり、と肩を震わせて由樹は反応する。自慢ではないが、筋金入りの地獄耳だ。特に恋人の詩鶴のことに関しては、NASAのレーダーも顔負けの厳しいチェックが入る。
「あのちょっぴり天然っぽいとことか、柔らかくて触ったら気持ちよさそうなとことかすっげー好きっ!」
 由樹の氷のようなまなざしは彼には届いていないらしく、隣の男子生徒は声をひそめ、楽しそうに授業中の会話を続ける。
(……ったく、どこ見てんだよ)
 右手に怒りの力を込めすぎたせいで、シャーペンの芯がばきりと折れた。由樹はいらいらと人差し指で机を叩いた。
「オレ、告白しちゃおっかな。先生、彼氏いるのかな?」
 誰だ、この失礼極まりないやつは……と考え、思い出した。名前は中村。確かバスケ部のエースだった。
(身のほど知らずめ。詩鶴にはオレがいるんだよ。バスケに夢中で脳みそまで筋肉なお前には適わないくらいのな)
 由樹は口元に不穏な笑みを浮かべる。
(お前の不用意な一言で、今年のバスケ部は予算大幅削減決定だ。それだけじゃない……覚えとけよ)
 お気の毒様、と心の中だけでつぶやき、由樹は心の中の閻魔帳に、憐れな犠牲者“中村”の名前を書きつける。
 まあ、生徒会長の権限としてこれぐらいは許されてしかるべきだろう。思いっきり私怨だが、こんな時でもなければ面倒くさいだけでどうでもいい生徒会長を引き受けた意味がない。
 本当に、危なくて仕方がない。あと一年は自分がしっかり見張っていてやらねばならない。
(そう言えば、明日の日曜は休みだな)
 久しぶりの休日。久しぶりのデート。
 ふと、由樹は思っていた。彼女を誘ってどこに行こう。
 だが、あの堅物な彼女のこと。「陸深くんは受験生なんだからっ!」とかなんとか言いだしかねないが、そのへんは上手く言いくるめるとしよう。
 そうそう、補習とでも言って。
 まあ、勉強ではない方を教えてやるのはこちらなのだから、ある意味対等だ。
 クスッと笑って、由樹は階下の教室で、授業を行っているであろう、愛しの恋人のことを想う。
 ――今日の放課後も、補習決定だ。

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