心恋うらこい

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 君の心が傷ついてる時にこんなことを言うの、卑怯だなんて百も承知。
 だけどどんな手段でも君の心が欲しいから。
 数え切れないくらいキスしてあげる。極上の甘い言葉で酔わせてあげる。最高の時間を君にあげる。
 ねえ、だから……俺を好きになってよ。



 夕闇の中、柔らかな声が耳朶に触れる。心の中だけで再生し続けた彼女の声は今、降りしきる雨に溶け入りそうなほど弱く、儚かった。
 偶然立ち寄った兄のアパートから漏れてくるのは、二つの声。彼女とあの人の声。確信した時、立ち聞きなどいけないことだとよく承知していながら、聞かずにはいられなかった。そして増していく会話の深刻さにいつしか立ち去れなくなっていた。
 泣いている。怒っている。彼女とあの人の間で交わされる、どこまでも平行線の一方的な会話。
 見たくない。聴きたくない。知りたくない……こんなこと。
 君が傷ついてることなんて知りたくない。
 きつく目を閉じ視界を強制的に遮断すると、外界の雨の音が嫌になるほど大きくなる。立ち尽くすままの自分の耳にあの人の声が聞こえる。
「……勝手にすれば」
 そんなふうにあの人が吐き捨てる言葉だけが、響く。続く言葉は、冷たく、酷く、どこまでも正確に彼女を追いつめていく。直接言葉を向けられたわけではない自分でさえ、心臓を鷲掴みにされたよう。
 両の拳を握りしめると爪が食い込んで痛い。けれど、その痛みだけが行き場のない怒りを押さえてくれる唯一の堰。
 微かな悲鳴、嗚咽、責める声。彼女が、傷ついてぼろぼろになっていく音たち。
 止まれ、と願った。だって、これ以上何か言ったら。
 壊れるから。きっと、壊れてしまうから。
 永遠のように長く感じたけれど、本当はきっと少しの間だったのだろう。ドアが開き、白いコートの小さな影が飛び出してくる。彼女はやはり、泣いていた。気づいた彼女の透き通った瞳から、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「……ごめん」
 どうすればいいのかわからない。だって、自分がここにいたことに明らかに彼女が傷ついた顔をしたから。走り去る彼女を引き留める術を自分は持たない。呼び止めようとした左手は、力なく落ちた。乾いたくちびるを湿らせた。自分はあまりにも無力だった。
涼夜りょうや?」
 室内から低く掠れた声がした。涼夜に僅かに似た面差しが眉をひそめてこちらを見やる。途端、胸の奥からどす黒い感情が湧き上がる。それらを必死に飲み下し、必死に無関心と無表情を装って涼夜はその人に近づくため、ごちゃごちゃと散らかった室内へと足を踏み入れる。涼夜を認めてまもなく、その人の呆れたようなため息が降ってくる。
「なに、来たんだ。もしかして、今の聞いてた?」
 とっさにためらった無言の間が、確かな肯定となり、誤魔化すことすらできず、涼夜は言葉に詰まって下を向く。すぐに侮蔑を含んだ追及の言葉が追いかけてくる。
「盗み聞きするような弟に育てた覚えはないけど?」
「……あんたに育てられたつもりない」
 辛うじて返した答えが少しは嫌味に聞こえていればいいのだけれど、きっと毛ほども気にしないのだろう。だっていつだって、涼夜のことは対等な存在として見てはいないのだから。
 くちびるをきつく噛んだ。心の底から大嫌いだと思った。人を見下したような物言いも、どう頑張っても埋められない歳月の差も……彼女のことも。全部、全部、苛立たしくて堪らない。
 自分と似ているようで全く似ていない、兄。世界でいちばん憎くて、いちばん羨ましい存在。黙ったままでいる涼夜の感情などお見通しのように、兄は皮肉っぽく笑っている。そして、誰に聞かせるでもなく、独り言のように呟いた。
「……ま、お前には関係ないしな」
 荒れ狂う感情が頭の中をぐるぐると回る。この人はいつもそうだ。モノみたいに軽々と、人の精一杯の気持ちを投げ出して嘲笑う。彼女を、そして涼夜を振り回す。身勝手で最低。よく分かっているのに、一体どういう矛盾なのかこの人に惹かれる。この人の身軽さに。この人の暗い影に。
「あのさ」
 低く、短く。醜い嫉妬心を押し隠して、兄を呼んだ。
「…… 麻白ましろさんと別れんの?」
 問いに、兄はさあ、と短く答えるだけだった。
「そうなるかもね」
 と言ってから、自業自得だけどと兄は諦めたように付け加えた。不思議なことに、笑っているはずなのにそこには傷ついた者の響きがあった。無造作に煙草に火をつけるその手が離れた涼夜の目でも分かるほど、激しく震えている。意外だった。さっきあんな酷い言葉を彼女に投げつけた人と同一人物にはとても見えなかった。
 どうしてだよ。何であんたが傷ついたみたいな顔をする?
 傷ついたのは、彼女の方なのに。傷つけたのは、あんたなのに。
「麻白さんのこと、嫌いなの?」
「嫌いじゃない、嫌いじゃないよ。けど、嫌いじゃないのは、好きってこととは違う」
「……なんだよそれ」
「あーほんと……女って面倒。すぐ泣くし、すぐ怒るし」
 最後の一言は、沈黙にやけに響いて耳の鼓膜を震わせた。あまりにもあっさりとした訣別の言葉だった。ムカツクと思った。その程度なのか。そんなに簡単に諦められる気持ちなのか。
 だったら。いらないと言うなら最初から。最初から、自分が欲しかった。
 いつのことだったか。出口が見つからない片想いの泥沼に嵌り込んだのは、いったいいつのことだったか。感情を自覚した時にはすでに遅かった。とうに、“堕ちて”いた。彼女に向けるそれは、恋と呼ぶにはあまりにも一方通行過ぎる感情だった。恋と呼ぶにはあまりにも子供じみた独占欲に満ちていた。
 生まれて初めて好きになった彼女は、あろうことか自分の兄を好きだった。
 彼女と兄とが付き合うようになってからも、想いは止まるどころか増す一方。
 麻白。涼夜の想い人で、そして兄の恋人の名。無邪気な子どもっぽさと落ち着いた大人の部分を合わせ持つ不思議な雰囲気の人。
 会うたびに惹かれていき、好きで愛しくて欲しくて仕方がなかった。
 心の中でいくら想っても無意味なことだと分かっていても、好きだと繰り返し叫んでしまう。その名を繰り返し呼んでしまう。
 最初に会ったのは、俺だったのに。最初に好きになったのも、俺だったのに。ずっとずっと、俺のほうが好きだったのに。
 そんなふうに空回りする言葉を、何度も何度も心の中で繰り返している。
 わかっている。想いをいくら秘めていたって無意味なことを。いつまでたっても自分を振り向いてくれない彼女を責めることは間違っていると。
 欲しいのなら、動けばいい。好きだと。狂おしいくらいに欲しいのだと。言葉で、行動で、持てるすべてで彼女へぶつかってみればいい。
「だったらさ、俺にちょうだい」
 想いを、口にした。ずっと秘めていなければと思った想い。
「手、放したんだったら。俺がもらうから」
 弾かれたように兄が面を上げる。
 もう、遅い。止める声は聞かない。

 雨が頭蓋の内側を叩く規則正しい音がする。冷え切った世界にすでに人気はない。
 だが、何となく分かる。彼女が行きそうな場所は、大体の見当がつく。
 しんと静まりかえった空気に、時折震えるような泣き声が混じる。彼女が泣いている。傷つけられて泣いている。体いっぱいで泣いている。隠れたってすぐに分かる。
 ほら見つけた。
「麻白さん」
 たぶんそこにいるだろうと思ったように、彼女はアパートのすぐそばの路地にいた。塀に背をもたせかけてぼんやりと夜を眺めている。真っ赤になった瞼、泣き濡れた頬に張りつく髪。痛々しくて寄る辺ない子どものよう。
「……そんなに泣くと、目が溶けるっスよ」
 からかいを含んだ涼夜の言葉に、肩が震えている。それでもほんの少し泣き笑いのような表情を見せる。
 いいよ。何も言わないでいいよ。無理に笑わないでいいよ。
 守ってあげる。君を傷つけるもの全てから、守ってあげる。
 だから君を傷つける兄貴なんかに、渡さない。
 涼夜を認めると、彼女は目を逸らせたまま、謝罪の言葉を口にした。
「……ごめんね」
 泣くのを堪えて、自分を安心させるために無理やり笑おうとする彼女の姿は、とても痛々しかった。いっそ泣きじゃくってくれればいいのに、と思わずにはいられなかった。
「聞いてたでしょ、ぜんぶ」
「……うん」
「ふ……ふられちゃった…………ばかみたい」
「……」
「どうして……っ……どうしてよぉ……っ」
 知っていた、彼女が綺麗になる理由を。そして彼女が傷ついて泣く理由を。
 彼女のことなら何もかも全て、見つめすぎて嫌と言うほど知り抜いていた。いっそ知らなければよかったとさえ思うほどに。だって彼女を見るたび、視線の先にはっきりした答えを見つけ出してしまうから。
 そう。彼女の心を占めるのは……いつもあの人だけ。
(弟の俺のことなんて、これっぽちも恋愛対象として見ちゃいない)
 こういう時、どうやって言葉を続ければいいのだろう。傷ついた彼女に、何と言えばいいのだろう。難しい、難しい、難しい……。
 言いたいことは決まっているのに。ただ一つなのに。
 泣くしかできない恋なら、やめてしまえばいい。
 そして……それから。
 少しは見てよ。俺のこと。
 俺の……俺の、全部。望むようにしてあげるから。
 俺を見てよ。
 それでさ、ほんの少しでいいから俺のこと。
 好きになって。
 分かりすぎるくらいによく分かっていた。心が弱っている時に優しくされると、人は簡単に落ちてしまう。本意ではなくても。こんな時にこんなことを言い出すのは卑怯極まりない。きっと正当な方法ではない。それでいい。たとえ苦しい想いを忘れるために利用されるだけだって構わない。
 堕ちればいい。堕ちてくれればいい。
「……忘れられる方法あるよ?」
 彼女が瞬きをして涼夜を見る。
 今という一瞬の時。
 互いの瞳に今映るのは、二人だけ。
「麻白さんのことを本当に好きで……本当に大切にしてくれる奴を好きになるの」
 間を置かずに、涼夜は心の中だけで何度も繰り返し続けた告白を、生まれて初めて口にした。好き、と。
「俺、麻白さんのこと、好き」
 あの人よりずっと。
 彼女の肩がびくっと震えた。落ち着きなくさ迷わせる視線が彼女の心を物語る。
「麻白さん、ずっと前から気づいてたでしょ?」
「……」
 それは、と小さく言って彼女が俯く。その仕草に長い髪がさらさらと肩を滑り落ちる。固く引き結ばれたそのくちびるが、言葉よりも何よりも確かに、自分の推測が当たっていることを示していた。
「ご、ごめんなさ」
「なんで謝んの?」
 知っていた。
 彼女が自分のことを可愛い後輩程度にしか思っていないことくらい。付き合っている人の弟だとしか思っていないことくらい。大人だから、自分の気持ちを悟って器用に逃げてたことくらい。
 好きだから、全部、知っていた。知っていたから諦めきれなかった。拒絶はされなかったから。そこにどうしても可能性を見出してしまうから。
「……別にいいけどね、それでも」
「涼夜くん?」
 隅に追いつめるように距離をなくす。細い手首をつかむ。その突然の行動に、彼女が小さく悲鳴をあげる。
「あの人のこと好きなままでいいからさ、俺のこと好きになって」
 甘い涙。苦い鉄錆。信じられない柔らかさ。
 返事を待たずにした生まれて初めての自分からのそれは、酷く苦しかった。ずっと我慢していたその行為をしてしまえば、あっという間にそれ以上のものが欲しくなった。もう後には引き下がれそうにない。
 胸が酷く痛くて苦しくて。身が焼き千切れそうで。制御できない。どうしようもない。“嫉妬”の感情が、指の先まで冷たく焼いていく。
「兄貴のことなんて、すぐに忘れさせてあげるからさ」
 発せられるのは、抗いの言葉。体を引き剥がそうとする反応。重ね合わせるたびに漏れ出る甘い吐息と、息苦しさから潤んだ瞳。そのどれもに体の芯から煽られて、理性が音を立てて崩れ、このまま全てを無茶苦茶に壊してしまいたいという衝動だけが残る。
 彼女の瞳に映っているのは、自分だけ。今の彼女を支配できるのは、自分だけ。
「……俺のものになってよ」
 求め続けた小さなくちびるを、そっと押した。艶やかに濡れたそこから漏れ出る吐息は、高鳴る鼓動と同じ速度だ。
 逃がさない。逃がしてなんかやるもんか。お願い。

 ――俺を好きになって。

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